一見、一貫性のないキャリアから生まれる独創性とは?

その時々に興味のあるものへ躊躇なく進む

ライティング

在タイ日本語メディア勤務での経験に支えられています。

プレリサーチ

記事企画はもちろん、取材日程計画やプレリサーチも含めて対応しています。

 

 

 

写真撮影

昨今好まれる、天然光で絞りの効いた撮影を得意とします。

数値管理

東証一部上場企業会計部門勤務経験より、緻密な計算を得意とします。

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―まずは簡単に現状の自己紹介をお願いします。


2002年より在タイしており、今はInfinity Wings BP Thailand Co., Ltd (iWBP)を経営しております。報告書や記事作成、経済レポートや産業情報など、「情報を文字で書いて提供する」という業務を行っております。

ー20代、30代、40代とでそれぞれ全く違う業界に転職していますね。この経緯をおしえて下さい。

その時どきで興味のあることにどんどん踏み込んでいきました。

多くの人が「転職するなら経験のある業界に」という選択肢を取りますが、私は全く知らない業界にであっても「面白そう!」と思ったら躊躇なく飛び込んでいきました。

20代は自由に飛んで広い世界を見て

ー20代の頃はどのように過ごしていたのでしょうか。

 


大学時代より卒業後は旅行業界での仕事を希望しており、大学の授業よりも
旅行業界関連の資格や英語の勉強をしておりました。

卒業後はJTB(日本交通公社)関連のの添乗員派遣事業会社に就職、1995年
から退職するまで7年間で世界40か国以上を訪問しました。


添乗員の仕事は新人研修などはほとんどなく、OJTが主でした。

2回ほど先輩と一緒にバスに乗っていくともう「一人前」として扱われ、半年もしないうちにバス2本(100名近く)のツアーを担当したりしていました。


当時は添乗員付きパッケージツアーも多かったですし、大型団体での仕事も頻繁にありました。

この仕事で「お客さんに不満が残らないように、会社に負担や損害を与えず問題を切り抜ける」「カスタマーサービスとはお客様の言うことをすべて聞き入れるというものではない」「計画遂行のための時間管理」「事前調査や準備の重要性」と言う、社会人の基礎のようなものを学びました。


観光業が主たる産業でない国ではガイドが付かないこともあり、「ガイドではないけど勉強しないと自分が困る」という状況でした。

そのため、次の仕事が決まれば訪問先の情報収集と事前準備はいつも念入りでした。
添乗員時代は7年で2,000冊以上の本を購入していますね。どんなところに行くときにも本を片手に、一日一冊ぐらいのスピードで読み込んでいました。

訪問先を舞台とした日本そして世界の名作も沢山読みました。日本の作家では水上勉氏、吉村昭氏がとても印象的でした。海外の作家ではアルプスの少女ハイジやフランダースの犬など、「子供の頃からテレビをみてよく知ってはいるけど原作は知らなかった」と言うものも読みました。

知ることが楽しい、知ってそれを自分の独自解釈を入れる、本の丸写しではない独自のコンセプトで印象に残る表現をするのが楽しい。そういう気持ちで添乗員という仕事を愛して働いていました。

そういうものはお客さんに伝わるのか、数えきれないお客さんに「あなたこれが天職よね」と言われたものでした。


添乗員で特筆すべき良かった点は、当時の添乗員派遣会社は3か月や6か月などの長期休暇も自由に取れました。普通の会社員では考えられない、人生に対して自由度の高い仕事でした。

休暇を取得して気に入った国や興味のある国へ短期語学留学なども数回しました。

特にスペイン南部・アンダルシア地方のグラナダは大好きで、半年ほど暮らしてみました。

グラナダで好きなものは何よりもアルハンブラ宮殿です。シエラネバダ山脈を背景に、外観は端正でありながら無骨、内部は一転してアラベスク美学があらゆるところに施され、その美しさに圧倒されました。

グラナダではスペインの他の都市やヨーロッパの他国よりも人々の優しさに触れることがよくありましたし、食事も口に合いました。ラテン文化の象徴ともいえるバル文化も大好きで、毎日通ってバル文化に浸りつつ店のスタッフと「今日はこれを注文する」「今日は調理の仕方を指定する」など勉強の場ともしていました。

20代は本当に「自由に飛んで広い世界を見る」という時期でしたね。


上の写真は海外旅行添乗員中級研修にて撮影したものです。OJTが通常でしたのでなかなか「同期の仲間」という意識が芽生えない職場でしたが、この時のドイツ古城街道・スイス名峰3か所めぐりで共に学んだ同期とは今も良好な関係が続いています。

下の写真は2016年の夏にこの同期が一堂に集まった時の写真です。添乗員を辞めた人、今も現役で添乗員を続けている人、日本国内に住む人、海外へ嫁いだ人、予定のつく限りで集いました。なんと15年ぶり。

再会できたから確認できるお互いの老け具合、再会できたからこそ確認できるお互いの変わってなさ。

私は同窓会等に今まで縁がなく、この同期会が人生初の同窓会出席でした。なぜ世間が「同級生」「同窓会」に拘るのか、単なる思い出話を語るだけでなく、単なる仕事のチャンスを求めてでなく、「集まれる」と言うことに喜びや意義があるのだなあ、と実感しました。

SNSの発達もありますが、若い時に一生懸命働いた友人と今もこうやって人間関係が続けられているのはありがたいことですね。

ーバンコクとの縁の始まりは何でしょうか。

2000年に大型団体のツアーデスク業務の仕事が与えられ、3か月間バンコクに滞在する機会を得ました。

当時、添乗員という仕事は愛していましたが、肉体的な衰えが激しく体力的な限界を感じていました。続けるべきか辞めるべきか。日本に住むのか外国に行きたいのか。気が付くとそのことばかりを考えていました。

日々添乗員として働きながら「やはり外国に住みたい」と言う気持ちが芽生えました。その次に「では仕事はどうするのか」。いつもここでうーんと唸るばかりでした。

理由は「今まで外国で会った日本人はみんな観光業だった。外国に住む日本人は観光業以外に仕事はないのでないか。しかし観光業では体力的な限界を感じている」。

かといって観光業以外に自分が出来そうな仕事と言うのも思い浮かびませんでした。「私はこれからどうしたらいいのか」そんな悩みの中で与えられた仕事でした。

長期滞在だったおかげで通常の添乗では見ることのできない「在住日本人がどのように暮らしているのか」という点を垣間見ることが出来ました。

日本人居住区にある日本人向けスーパー、数多い和食店、どこに行ってもそれなりに日本語で対応など、ヨーロッパであんなに苦労していたのはなんだったのか、と思うほどバンコクは「快適な外国」でした。

日系企業が多数進出しておりフリーペーパーなどに「事務系のお仕事、初心者可」「未経験でも丁寧に指導します」などの求人広告があり、「観光業以外にも沢山仕事がある」という点も感銘を受けました。

また、この滞在で「アジアにも美しいものが沢山ある」という気付きがあったことも大きかったですね。

ヨーロッパを見聞きしているとどうしても「美しいものはすべてヨーロッパにある」と思い込みがちでした。アジアと聞くと発展途上や貧困と言った面ばかりを思い浮かべてしまっていました。

1900年代前半に東南アジアで唯一植民地化を逃れたタイに残る素晴らしい文化、建物、人々の行動様式などをみて「なんて馬鹿な思い込みをしていたのだろう、アジアだって素晴らしい」と思えたことですね。

2001年09月11日にニューヨーク同時多発テロが発生。「もしあの飛行機に乗っていたら?」と思うと戦慄し、ストンと憑き物が落ちたように添乗員を辞める決心がつき卒業しました。

そして新天地としてバンコクを目指しました。

30代は地に足を付けて礎作り

添乗員であった7年間はいつも移動しいつも違うベッドで寝ていましたので、タイに来て3か月ぐらいは「毎日同じ部屋に帰り同じベッドで寝る幸せ」と言うものをかみしめていました。

しばらくはそれまでの7年の疲れを癒すかのように、言葉を勉強しながら南国の日差しの中「新天地」を歩いて回ったものでした。

その後仕事を探す段となり、希望していたのは「事務職」でした。添乗員として外に出る仕事ばかりしており、事務処理が苦手なことは自覚していましたが、添乗員の時のお客さんで「OLなんかよりも添乗員さんは楽しそうでいいよね」とよく言われてましたので、どんなものか興味もありました。

ご縁があって、2003年より東証一部上場企業タイ現地法人のタイ川鉄商事(現タイJFE商事)に採用され勤務開始となりました。

タイJFE商事は高炉直系鉄鋼材専門商社です。全くもって旅行業界とは毛色の違う仕事でした。今思えば、何一つ事務作業なんてしたことがなかったのに、図々しく応募したし会社側もよく採用してくれたな、と思います。

当初は営業部に配属され、自動車鋼材を購入するお客様と、自社の事業会社であるコイルセンター向けに電機用鋼材などの営業、在庫管理、納品管理などをしていました。

この営業部時代も非常に多くのことを学びました。特に、製造業の購買と言うものがどれほど会社の業績に影響を与えるのか、管理は管理としながらも現場で発生する様々な事象をどう損失無く済ませるのか、などです。

会社の業績や損失と言うものはすべて金銭で弾き出されます。この仕事を通して「自分は金銭管理に関する知識が圧倒的に不足している」と言うことを痛感しました。

一念発起して自宅で日商簿記の勉強を開始、1年後に2級に合格しました。この合格を機に、営業部から経理を中心とした後方支援部門へ異動しました。同じ会社内ではありますが、「転職した」と言っていいほど全く性質の違う仕事を始めることになりました。

ーそこではどのような仕事をしたのでしょうか。

 

当初は営業経理と言って、営業面から見た場合の経費勘案や予算配賦、在庫付帯金利にまつわる損失、営業部署毎利益管理などをしていました。

その後、東京本社へ報告するための会計業務、財務業務としての与信管理、与信調査など、会社管理業務を担当、ここでも多くの勉強をしました。

その後はどんどん仕事が増え、人材採用の際の一次スクリーニング、自社サーバー導入時のコーディネーターなどを担当しました。

 

大企業でのOLさん生活と言うと、どうしても「自由がない、毎日同じつまらない仕事、誰にでも取り替えのきく歯車の一つ」と言う方面ばかりにスポットが当たりがちです。

私は担当業務は予定通りに遂行しつつも、その手法に関しては相当自由に実験も兼ねて実行していました。

経理というと一見毎日同じような仕事に思えますが、毎日新しく学ぶことばかりでした。知らない物を仕事で勉強し、その知識をベースに別の仕事を新しい手法で試してみる。不足点は自分で改善したり誰かが教えてくれたりと、とても楽しかったです。

何よりも、チャラチャラと外に出かける仕事が向いている自分がまさか後方支援部門勤務なんて、そしてそれを「楽しい」と思えるなんて、それこそ20代の時の私では想像さえもしたことはなかったのですよね。

また、経理、財務、与信調査など、会社を守る・管理するという面での基礎知識もここで培いました。

「OLさんだって十分楽しいじゃないか」と言うのがこの会社で働いた私の感想です。大企業の歯車ではあるだろうけども、歯車にしては頗る自由でした。

20代の飛び回る生活とは一転し、30代は「地に足をつけ礎を築く」と言うものを体感しました。

 

ーそして転職と。


OL生活は勉強することばかりで楽しかったのですが、その一方「本当にこれが自分の仕事だろうか」という思いもありました。

もっと自分のクリエティビティーを表現してみたい。そういう思いも渦巻いていました。

そんな折、ある筋からバンコクで著名な日本人女性向けフリーペーパー・バンコクマダムで人を探してるけど誰かいないか、と紹介の依頼がありました。

これもまた全く経験のない仕事でしたが、「もしかしてこれがご縁?なんだか楽しそうだし、やってみたい!」と自分で行くことにし、タイJFE商事を卒業しました。2010年でした。

「楽しそう!」と飛び込めばそれは「天職」。

ーそこではどんな新しいことがあったのでしょうか。


社内人事の都合上、元々営業で入ったのに編集長をすることになりました。編集長なのに初心者という、普通なら考えられない状況でした。

デザインだとか印刷だとか一切分からなかったのですが、それこそOJTで学ぶしかありませんでした。

この雑誌は日系企業駐在員の妻が読者層です。日系企業の駐在員に対する厚遇を「日本に帰れば普通の主婦だけど、バンコクにいる間は多少有閑マダムのような生活が送れる=バンコクではマダム」というのが名前の由来です。バンコクに住む間は金銭他に余裕があっても根は庶民的なため(エセであっても)”マダム感を煽る”と言うのがいつも心にありました。

元々の企画好きや取材でのオイシイところ拝受が性格に合致しグルメ企画、旅行企画、ショッピング企画と自分の興味のあるものをどんどん出していきました。

人手不足のため、企画、営業、取材、撮影、執筆などを行っていました。ここでもまた自分の采配による自由な働き方をしていました。

「バンコクマダムを読んで読者が行動する」を掲げ、どのように書きどのように撮影すれば店舗の売上につながり広告につながるのか、ひいてはバンコクマダムのブランド化につながるのか、と言うのをいつも考えていました。常に広告主側に新しい提案をしそれに伴う実証を重ねて信頼を獲得してきました。

入社前には44ページだった雑誌が絶頂期で72ページと28ページ増、売上は2倍、経常利益は6倍を記録しました。

広告主さんがみな「**という企画がある。まずはあなたに相談したい」とおっしゃっていただき、「これこそあなたの天職よね!」など、外から見てもそして自分でも非常に充実した仕事ぶりでした。

特に思い出深く読者からも高評価だった2011年12月号

バンコクマダムの仕事も本当に多くの機会と学びに恵まれました。しかしやはり「卒業の時」が来たのです。

様々な人生の転機が一気に押し寄せてきました。後ろから大きな手が崖っぷちでどんどん押してくる、ギリギリのつま先立ちで立っていて何もできない、ここは自分の居場所ではない、「変わらなければならない」と語りかけて来る大きな力、そんなものを感じていました。

ふと、この感覚に既視感がある、と感じた日がありました。それはバンコクマダムの仕事と同じように、周りから「天職だね」と言われ、自分でも愛し楽しんでいた添乗員の仕事をこのまま続けるのか大いに迷っていた時期によく似ている、というものでした。

それならば、今苦しんでいるこの状況は時が来たらすべてが過去の古いものとなり、すべてが新しくされる。自分で想像できなかった全く新しい人生となる。

なにも恐れることはない、必ず新しい道が開ける。なにも怖がることはない、必ず誰かが助けてくれる。そう、添乗員を辞める決心をした時と同じく、ストンと憑き物が落ちたように辞める決心がつき卒業しました。

2013年8月でした。

 

40代は今までの経験の意味がわかってくる

ーそして会社設立ですね。


幸い、旧知の友人に紹介された仕事で、ちょこちょこ自宅での事務対応はあるものの、一か月の実質拘束時間は1週間程度、暮らしていけるそれなりの額で定期収入となるように合意し、思ってもみなかった大きな自由が手に入りました。

この仕事のおかげで、生活のために会社員として就職し時間を束縛されることもなく、収入が途絶えることを恐れず済みました。

維持費発生は避けられないが無いと不都合、という会社も設立しました。あれよあれよと言う間に自分が好きなように活動できる拠点が出来ました。

自分では金銭的に無理だろう、と頭から思い込んでいたものがどちらも与えられたわけです。この時は「思い込みから自分を解放する」というような、いろいろなことが”目からうろこ”の時期でしたね。

当時は自分の人生の変化についていけず、何をしようか全く考えられませんでした。ある時下請けとしてもらった仕事に「調査」と言うのがありました。この仕事は資金不要、コンピューターと電話さえあれば出来る仕事です。「書く」と言う仕事がますますクローズアップされた時期でもありました。


そのうち「ビジネスメディア向け記事作成」という業務も生まれてきました。ビジネス関連では必ず金銭他数値での考査が必要となるため、経理の経験が大きく役立っています。

調査やビジネス記事作成の仕事は「知らなかったことを知る、解る」という面でも非常に興味深い仕事です。調査も記事作成も業界や分野は問いません。多くのことに触れ、多くを知り、その情報がまた別の機会の全く別の業界でふと大きなキーワードになったりと、本当に面白いですね。

並行してグルメや旅行などのレジャー記事の仕事も増やしていきました。こちらではおいしい楽しいはもちろん、すべてのレジャーに安全と健康を第一とする行程管理を提唱する、など添乗員時代に培った経験と見解を含めるようにしています。

ーすべてのことがつながっていますね。

多くの人が今の自分に対し「これが何の役に立つのか」と思いながら生きていることが多いようですが、私は人生に無駄なんてない、という意見ですね。

1971年生まれですので十分中年老年ではありますが、いまだに知らないことばかり、いつも新しく始めてみたい事ばかりです。

最近(2017年半ば)はインターネットビジネスについて勉強したい、基礎知識を付けたい、と自社のHPをメンテしてくれているエンジニアさんを先生にし、分からないところは質問して指導を受けつつも自分で自社HPを作ってみました。

基礎中の基礎事項程度ですが、これも全く知らないことばかりで楽しく勉強になりました。

20代は自由に飛んで広い世界を見て、30代は地に足を付けて礎を作りました。40代以降はその二つを元にさらに高く飛び、広く知り、深く考えたいですね。

そして長い目でことの成り行きを見守る強さ、機会を逃さず機敏に行動する迅速さ、それらをもってもっと大きく成長したいですね。

ー最後に座右の銘を。


中国古典からは「人間万事塞翁が馬」です。西洋文化の基礎である聖書からは「求めなさい、与えられます。探しなさい、見つかります。ドアをたたきなさい、開かれます」。この二つですね。

人生の些末に一喜一憂せず、いま目に見えていない手の中にないことを大胆に求める。
人生の不透明さを嘆かず、何が自分を待っているのかワクワクしながらどんどん探しに出かける。
人生の困難が一生続くと思いこまず、まずは行動にでて開かれるまでドアをたたく。

そしていつも笑顔でいること、周りにいる人に愛と感謝を伝えること、その人たちの健康と安全が守られるよう口にすること、を常に心がけています。